モンゴルの旅:チベット仏教について
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イントロ
2007年の青蔵鉄道でのチベットの旅に続いて、2008年6月にモンゴルは奥テレルジを訪問。
チベットの旅で圧倒的な迫力で迫ってきたチベット文化、その中でもチベット密教について調べていると、モンゴルとの深い関係に行き当たります。これは、モンゴルも調べてみなくっちゃねと思っている時に、モンゴルの奥テレルジへのツアを見つけて衝動申し込み・・・というのは後付けの理由、ほんの少しは両者の関係への好奇心もありましたが、本音は知らない辺境にゲルに泊まりながらのトレッキングに惹かれたためです。
その記録はホームページ本体にまとめているので(→URL)、ここでは閉鎖したBLOGに断片的にアップしてあったモンゴルとチベット仏教などの関係についての雑話を拾い上げました。
モンゴルの旅 記録
モンゴルでのチベット仏教について
 元の時代から拡がり明、清の時代を通してモンゴル、チベットだけではなく中国全体に大きな勢力を誇っていたようです。そして、社会主義政権になる前のモンゴルでのチベット仏教。ほんとの所は判りませんが、かなり邪教的なイメージがつきまとっているようです。
モンゴルについて調べようと手にした本達です。その中でチベット仏教に触れた2冊、司馬遼太郎のモンゴル紀行、日本モンゴル親善協会の方の[大いなるモンゴル」から・・・
モンゴル仏教(チベット仏教)は黒祠邪教か?
目次
1.まずは、そのひとつ。司馬遼太郎の「街道をゆくシリーズのモンゴル紀行」
2.もうひとつ。日本モンゴル親善協会の理事「山本泰生」が書かれた
    「大いなるモンゴル」
3.さて、ほんとのところは??
補足:チベット(仏教)と元、北元、明、清の関係史
1.まずは、そのひとつ。司馬遼太郎の「街道をゆくシリーズのモンゴル紀行」
 この本は、まだソ連が存在した1973年にソ連経由でモンゴルを旅したときの紀行文です。この中で「あれれ、ほんとなの」と疑問を感じる事が書かれていました。
 司馬遼太郎は好きな作家です。彼の小説を読んでいて感じることですが、司馬さんはかなり饒舌ですね。小説でも本筋から時代も場所も離れて、あっちに飛びこっちに飛びと色んな情報を饒舌に語ります。このモンゴル紀行でも同じです。民主化される前の社会主義時代のモンゴルの状況も色々と書かれていて興味深いです。世界で二番目にできた社会主義の国とは言いながらも、ソ連とか昔の東欧とはかなり違った開放的な印象です(政敵の粛清など血塗られた歴史はあるようですが)。
 気になったのは、清がモンゴルを支配していた時代のチベット仏教の事を書いている内容です。
彼の歴史小説の中で多少の創作とかデフォルメはされていても、本質的な情報としては信頼しています。このモンゴル紀行で書かれている「モンゴルのチベット仏教に関する余談」にはびっくり。まるで邪教そのものの印象を受けます。チベット仏教といわずにラマ教(今は不適切として通常は使わない)と書いていますが、それは紀行文を書いた時期のせいでしょう。気になったのは、断定的に書かれていた以下の内容です。
○清朝がモンゴル人の民族的活気を殺ぐためにラマ教をすすめた事が衰弱に拍車をかけた。
○生産を支える男子の多くが僧になり、ラマ教には僧が初夜権を持つという奇習があり、
  しかもその性的権威を通じ、僧が梅毒を蔓延させるなどもあって人口まで激減。
○清朝の対モンゴル政策には梅毒をひろめることまで含んでいたといわれる。
○チベット民族の一派であるタングート人がシルクロードの商圏を大きく握っていたこともあるのに、
  秘境という印象の強い西蔵高原に引きこもって、ひどく閉鎖的な民族になったのは
         ・・・少なくともラマ教の信奉と無縁ではあるまい。
○モンゴル人の精神と生活を自立できないまでに退廃させたのはラマ教である
こうした内容の記述が随所に出てきます。うーん、こんない酷い宗教だったのかしら??
2.もうひとつ。日本モンゴル親善協会の理事「山本泰生」が書かれた
   「大いなるモンゴル」
 この本にも、おおよそ同様の事が書かれていました。
○17~18世紀のおおよそ200年間、清の支配がモンゴルに及ぶなかで、ラマ僧によつ搾取と
  蓄財が横行。働き手の男子の多くが僧籍に入り、労働力不足で社会の生産力が大きく低下、
○解脱のひとつの手段として性行為を教義に取り込み、ラマ僧が信徒の初夜権をも握る、
○ために梅毒が蔓延、人口激減で民族滅亡の危機に至った。宗教が国を駄目にしていった。
3.さて、ほんとのところは??
 チベット仏教とモンゴルの関係、そしてモンゴルと元・明・清との表の歴史・関係などは色んな書物・文献にしっかりと書かれていて、明確に判ります。
 チベット仏教サキャ派が元のフビライの信任をえて帝師となり、代々帝師を宮廷に送りこんだとか、明・北元の時代になってモンゴルのアルタンハーンがチベットのデブン寺の貫主ソェナム・ギャツォにダライラマの称号をおくったのがダライラマの始まりだとか・・・こういった表の歴史は色々と情報があります。
 でもその裏面史というか暗黒の部分がよく判らない。インドで始まった「性を使った修行」を取り入れ発展させた「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」がねじ曲げられ、後宮がタントラ仏教の卑猥な面を喜ぶのに迎合して元の滅亡を早めたともいわれてます。そして、次の明朝も約1世紀にわたって後宮の猥褻な要請におもねり、歴代皇帝を惑乱。チベット仏教を黒祠邪教とするぬぐいがたい印象を中国に残したという事も言われています。更に清の時代です。上記の司馬遼太郎の本にも邪教とも思われる内容の事が書かれています。
 これらの事は本来のチベット仏教の本質とは違うと思いますが、確かにチベット仏教がこのように風紀の乱れを発生させた時期があって、15世紀初めころにツォンカパによるゲルク派がチベット仏教の改革・建て直しをしたそうです。
 「小乗仏教以来の僧団の戒律を重んじて,タントラ仏教の解釈学を徹底させ、そこに含まれていた戒律に触れる性的実践との関与をいっさい絶った。
  その上で顕教による般若波羅蜜の修習を終えた者のうち,きわめて優れた素質のあるものが,利他行を完成するためにこの世で一切智者(仏)の境地に到達しようとするとき,無上瑜伽タントラの実習が許されるとした。
とチベット仏教の表の歴史では上記のように言われています。

 しかし、この改革・建て直しの話とそれより後の時代になる筈の前出の邪教のような話は合致しないですね。実際のところはどうなんでしょうか。いつの時代にも不心得者はいますが、記のように国全体に大きな影響を及ぼすような事があったとすれば問題ですね。改革・建て直しは本当なのです?
 そんな古い時代のことでもありませんから、チベット仏教の内部には記録が残っているのではないでしょうか。いろんな情報も飛び交っていて、なにが本当なのか曖昧なままです。ここはダライラマ14世にきちんと情報公開をしてもらいたいと思うのですが・・・。
補足:チベット(仏教)と元、北元、明、清の関係史
 上の写真にもある”宮脇淳子さんのまとめられた「モンゴルの歴史、遊牧民の誕生からモンゴル国まで」"は力作です。紀元前千年頃から中央ユーラシアに名前が出てきた遊牧騎馬民族キンメリア人・スキタイ人に始まり現代の民主化されたモンゴル国までの約3000年を一気にまとめておられます。

 漢民族の秦と漢のあと後漢が滅びて魏、呉、蜀の三国分裂そして五胡十六国の遊牧民による戦乱時代を経て鮮卑が中心となる隋と唐の時代へと移る。随・唐では漢までの時代の漢族と言葉まで変化してしまったそうですね。ここら辺りからやっとモンゴル族が歴史に登場し始め、やがてチンギスハーンへと話は移っていきます。モンゴル帝国の時代に入ってチンギスハーン、フビライなどの有名どころから明朝・清朝・中華民国の時代まで耳慣れないモンゴルの「xxxxxハーン」の名前が次々と出てきて頭が混乱しますが(^_^)、その中で個人的に興味のあったところを掻い摘んでまとめると・・・、
○1229年にチンギスハーンの後にオゴディハーンが即位。この時代に金朝を滅ぼし、カラコルムに首都を置く。そして、本格的なヨーロッパへの侵入を開始、遠くポーランド、ハンガリーまで席捲した。高麗やインド、イランに遠征軍が派遣され、チベットへの侵攻もこの時期。
○1260年には、サキャ派の座主パクパが元王朝の初代皇帝・フビライに招請され、帝師となる。フビライ配下の文化・宗教顧問として活躍した。
フビライからモンゴル語と漢語の表記を一本化する公用語の制定を命じられて1269年、チベット文字を基礎としたパスパ文字を作り上げた。
○1368年、紅布群の残党であった朱元璋が大明皇帝になる。元の恵宗が上都に更に内モンゴルへと逃げる。中国式ではここで元が滅びた事になるが、実際には勢力を維持していて、北元の時代になる。そして、明朝の制度はモンゴル式で中国式ではなかったらしい。
○1547年にはアルタンハーンがモンゴル高原の実権を握り、漢人を入植させたりチベット仏教の復活もさせる。
○1578年アルタンハーンはチベットのデブン寺の貫主ソェナム・ギャツォにダライラマの称号をおくる。これがダライラマの始まり。ダライとはモンゴル語で大海を意味する。ラマはチベット語で師(教師・指導者)を意味し、サンスクリットのグルにあたる。
ダライラマ称号を2代に遡らせたので、始まりが3世になる。次の4世はンテン・ギャツォはアルタンハーンの孫スメルタイジの子、即ちモンゴル人。
○1616年になると、ヌルハチが後金国を建てる。その子のホンタイジは民族名を女直人からマンジュと改名、満州人となる。
○1632年頃にチベットのカルマ派、ゲルク派の争いが起きて、施主になるモンゴル領主も巻き込まれる。
○1635年にホンタイジが元朝の玉璽を受け取って、1636年に国号を大清とし、マンジュ人/モンゴル人/高麗系漢人の皇帝となる。・・・あれ、なぜ明ではないのかな?
○1642年頃にモンゴルのグーシー・ハーンがダライ・ラマ5世から持教法王の称号を受ける。モンゴル語ではグーシ・ハーン。
グーシ・ハーンは、自身の配下を率いてチベットに移住。1642年までに青海、カムを含むチベットを統一しチベット王となり、ダライラマ5世をチベット仏教の教主とする。これがダライラマ政権の始まり
○1644年には明が滅びて清の時代に。文化的にはモンゴルの影響が大。ヌルハチ時代にはモンゴル文字から満州文字を作り公用語に。またホンタイジの5人の皇后はすべてモンゴル人。
○18世紀初めにグーシ・ハーンの子孫たちはダライ・ラマ六世の認定をめぐって分裂、ジュンガル、清朝の康熙帝ら外部勢力を導き入れる抗争を行って衰退、清朝の雍正帝はこれに乗じ、年羹堯を司令官とする軍勢を青海に派兵した。
○1723年、清朝軍はグーシ・ハーンの子孫たちを制圧、支配下に組み込んだ。1720年には清の公認したダライラマ7世がラサに入城。清によるチベット保護(支配)の始まり。
○1779年には全モンゴル人が清皇帝に服する。清はモンゴル族を同盟者として扱い保護。種族別自治が原則で中国人、満州人、モンゴル人、チベット人、イスラム教徒それぞれに法典をつくる。モンゴルの旗長は清朝皇族と同じ扱い。満州、モンゴルへの漢人農民の入植を厳しく禁じる。漢人商人に対しても1年以上の滞在、固定家屋の所有、モンゴル人との結婚を禁じる。
○1862年にイスラム教徒の反乱、漢人将軍が平定。これをきっかけに清王朝の方針が変化。満州人とモンゴル人が連合して漢人を統治、チベットとイスラム教徒を保護するという建前から満漢一家の方針に変化。中国商人がモンゴルに進出、モンゴルの国家財政を脅かすほどに。1902年には漢人の入植も奨励し、内モンゴルの放牧地は著しく減少。
・・・・その後、清/中華民国/日本/ロシアその後のソビエトがモンゴルで入り乱れて自国の権限拡大を争う。基本的には中国の宗主権を認め、外モンゴルは自治、内モンゴルは中国領のままで推移か。満州国と日本軍が攻め込みソ連・モンゴル軍に壊滅したのがノモンハン事変。
以上のようなところだが、知りたかった明朝と清朝によるモンゴル支配の本当の実態、特に清がチベット仏教を利用してモンゴルを押さえ込んだとか、モンゴルを弱体化するためラマ僧よる梅毒を蔓延させたとかいった俗説?がなぜ出てきたのか不明なままです。

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