福岡: 糸島かき小屋、(廃墟)福岡歴史の町
    大濠公園・福岡城跡・市立美術館(モネ展)
        
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行程
  2016/01/08~01/16 福岡滞在
      01/13 糸島かき小屋、(廃墟)福岡歴史の町
      01/14 大濠公園・福岡城跡・市立美術館(モネ展)
      01/15 吉野ヶ里遺跡 
 昨年の8月に入ってから色々とあって、ホームページの更新が滞っています。昨年11下旬になってから、取りあえずはMIXIにアップしていた記事をコピーしていってます。

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します


今回の観光地図
所用あって、昨年の12月に続き、二度目の福岡県へ約1週間の旅。
所用の合間に、 1.糸島かき小屋、廃墟となった福岡歴史の町
           2.大濠公園・福岡城跡、市立美術館のモネ展
と観光。


小型プロペラ機
阿波おどり空港から福岡空港の便は1日一回のみ。それも一昨年末に搭乗した
ネパール国内線と同じく懐かしい?プロペラ機。でも、少し大きくて、騒音も 少なめ。見かけにも安心感があります(^_^;)
○さて、まずは最初の隙間観光
 

福岡歴史の町
ではなく里(^_^;)
 前回の九州訪問時に気になっていた「福岡歴史の町」という閉鎖された大型 のテーマパーク探しです。
福岡、佐賀には至る所に古墳もあり、魏志倭人伝の頃を何となく肌で感じる雰囲気があります。この廃墟となったテーマパークの付近も至る所に古墳とため池があります。
ネットで検索した地図に従ってウォーキング。古墳、ため池の横を通り、坂道 を登っていったが、「福岡歴史の里」というシニア施設があるのみ。
人にも出会わず、民家もまばら。イノシシが掘り返したと思われる痕跡があちら こちらにあって、ちょっと怖い雰囲気。だが、テーマパークの廃墟は見つかり ません標高100mほどの所のトンネル手前で、変電施設の点検をされている人にやっと 遭遇。「もう随分前に閉鎖され、もう撤去された」と教えていただき、残念ながら 断念して引き返しです。
眼下には福岡市西区の街そして金印の滋賀島のある福岡湾、更に玄界灘が望めます。
 

眼下の福岡湾
○続いて13日には、有名な糸島のカキ小屋へ。そいて帰りに再び福岡歴史の町の探索
 

カキ小屋

カキ小屋の内部
  玄界灘に突き出した糸島の半島沿いの海岸には幾つも漁港があり、それぞれに沢山
のカキ小屋があるようです。迷いますが、えいやっと船越漁港の服部屋に決定。
炭焼きのカキ小屋もあるらしいが、ここはガス焼き。灰の飛び散りは少ないか(^^)。
一皿1000円のカキを二人前にイカ一皿そしてカキ飯を注文。
カキにはポン酢をかけて食べたが、海水による塩味がきつく、カキ雑炊のような コクと旨味はなくて、もうひとつ(^_^;)。
 

カキ焼き

貝殻開く

福岡の歴史の町

福岡の歴史の町

福岡の歴史の町
帰りに、前日に行けなかった「福岡の歴史の町」を車で探しに。昨日はウォーキングでたどり着いた最終地点のトンネルを通り抜けたところにありました。
業者の方が入っていて解体作業中。残念ながら入り口から覗くだけで、危険で中には入れず。
白壁の民家の町並み、忍者村、そして広場にはおばけ屋敷やアスレチック等があったそうだが。
 ○所用対応と隙間利用の観光。
  疲れ気味だが、続いて「福岡城跡、モネ展の市立美術館、大濠公園」へ
黒田長政が築城した福岡城は明治に取り壊されてしまい、石垣が少し残るのみ。 城跡一帯は公園化されています。

福岡城跡

福岡城跡

福岡城跡

福岡城跡

大濠公園の島
シラサギ被害?

大濠公園
池を貫く道と橋
大濠公園は、福岡城の外濠だったそう。大きな池の真ん中を貫くように島があり、
それがが橋でつながっています。なかなか見応え、歩き応えがあります。
大濠公園の大きな池の周りにも城跡にも沢山の野鳥がいます。池にはユリカモメ、
シラサギ、鳶などが多数。棲み分けか城跡側には烏の群れ。

おしどり

大濠公園 浮見堂

大濠公園
池を貫く道と橋

鳶に餌やり(^_^;)

大濠公園 貫く橋

ユリカモメ群

美術館
立ち寄った「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」は昨年の東京美術館に続いての開催のよう。今回の目玉は「ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅」。
2月になると「印象、日の出」に切り替わったらしい。
○さて、またまた別の日。 吉野ヶ里遺跡を訪問
予報と異なり青空のひろがる好天気。
疲れ気味だが、前回の九州訪問時にチャンスを逃がした吉野ヶ里遺跡を訪問。
弥生時代の思っていたよりずっと大規模な遺跡だった。

遺跡入口

ボランティアスタッフ

外堀と城柵

門に鳥 種類は?
鳥居の前身か
10年以上前に訪れた青森の縄文遺跡「三内丸山遺跡」でも想像以上の規模と当時の進んだ文化・生活レベルに驚かされたが、 この吉野ヶ里遺跡は更に規模が大きいようだ。
ただ、両者では大きな差を感じた。「三内丸山」の牧歌的な社会・文化の印象に対し、「吉野ヶ里遺跡」では現在に通じる階層社会と争いの匂いがプンプン。
と、今回の九州訪問。宿題にしていた吉野ヶ里遺跡とか福岡歴史の町など、幾つかの観光巡りを達成です。

見張り櫓

南内部 壕と柵
で守り

南内部へ

南内部
王と支配層

集会所

主祭殿
千木と鰹木の前身?

祭殿内 王と支配層

祭殿最上階
巫女?

北墳丘
祖霊の宿る柱

北墳丘墓 内部

倉と市
○余談:吉野ヶ里遺跡から縄文と弥生時代への妄想
「吉野ヶ里遺跡」は、弥生時代の思っていたよりずっと大規模な遺跡だったが、10年以上前に訪れた青森の縄文遺跡「三内丸山遺跡」との印象に大きな落差がありました。
「三内丸山遺跡」も想像以上の規模と当時の進んだ文化・生活レベルに驚かされたが、 この「吉野ヶ里遺跡」は更に規模が大きく、それ以上に社会・文化の大きな変化に驚かされました。
5500年前から1500年も続いた縄文の「三内丸山遺跡」と2500年前~1700年前と新しい弥生時代の「吉野ヶ里遺跡」。時代が異なるし、食文化もクリ・エゴマ・マメ類などの裁培と狩猟・採集・漁労を組合せた三内丸山と稲作をメインにした吉野ヶ里の違い以上に社会・文化面での大きな落差を感じる。。

三内丸山

三内丸山

三内丸山
いかにもの牧歌的で寛げる印象を与える「三内丸山遺跡」の社会・文化に対し、「吉野ヶ里遺跡」では、    王とその妻達と支配層の大人達が住まう区域があり、
      敵の侵略から守るための環濠と埋木・城柵
      そして、敵の攻撃を見張るための櫓、鎧と弓矢で武装した兵士
といった現在に通じる階層社会と戦い争いの匂いがプンプンしています。


遺跡発掘で出てくる人骨でも、縄文遺跡では組織的な争いによって死亡したと思われる出土例はなく、ところが弥生遺跡では戦争で死亡したと思われる沢山の人骨が出てくるとの事。

組織的な争い・戦闘のなかったと思われる縄文人は、戦いが文化の根幹にありそうな弥生人に滅ばされてしまったのか、そしてその弥生人が我々日本人の祖先になったのか、それとも両者はうまく融合して、いまの日本人のルーツになったのか・・・好奇心を擽られます。

日本も朝鮮半島も土壌が酸性のため骨が残りにくいらしいが、それでも最近のDNA分析技術の進歩で現代の日本人と縄文人の関係がかなりわかってきているらしい。

日本人は中国などアジア周辺の人たちと外見は似ているが、DNAを調べるとかなり違う要素を持っていて、それが縄文人の影響ではないかとの可能性が高まっているようだ。
アジア周辺の人と異なった特徴を持つ縄文人とは、特徴的なY染色体(男性)を持っていて、それがチベットやアンダマン諸島(インドの東海上)の人と共通するらしい。
一方、人種が入り交じりやすいアジア大陸の広範囲では、この特徴は別グループに取って代わられたのではと。島国とか山間部では、他のグループとの交流がかなり限られていたため、現在の日本でもかなり高頻度で残っているとのではないかと。

更にもっと以前の温暖化で縄文海進する前の氷河期に地続きの大陸から渡ってきた石器時代人との関係はどうなのかも気になるところです。
ともあれ、1万年以上の長期にわたる縄文時代の後期に突如出てくる戦いに長けた弥生人とは何者なのか?
大陸から水稲耕作の文化を携えて何回かに別れて渡来してきて西日本中心に広がってきた弥生人は、がっちり型で顎がはった濃い顔の縄文人にたいして身長が少し高く面長のっぺり型だったらしい。
彼らは、中国の戦国春秋時代に戦乱を逃れて、仙人の国があるともいわれていた東海上へと出船した人たちらしい。戦乱を逃れたとはいえ、稲作とやはり戦いという根っこにある文化と武器を持って渡来したようだ。
幾つかのルートが想定されていて、モンゴル方面から、朝鮮半島から、上海方面から、台湾経由のルートではと白血球の血液型から推定されている。
こうした渡来人は大挙しておしかけて来たのではなかったが、急激に九州、中国そして西日本へと縄文人を押しのけて拡がっていったらしい。
なかには虐殺?生け贄?にされた縄文人の骨もでてきてはいるようだが、入れ替わっていった大きな原因は戦いではなく、出産率のせいではないかとの説があるようだ。
出産可能年齢が弥生人は長かったこと、稲作などの食生活もあって、縄文人に比べて人口の増加がすごかったのではと推測されている。

ただ、弥生人の広がりは西日本までで、東日本には縄文人がひろく展開していたらしい。そして、逆に東日本から縄文人が弥生人の稲作とか文化に惹かれて西日本に移動してきたとも。基本的に両者はうまく融合していった印象か。

なので、我々日本人には、自然を自分のために改変しようという耕作文化の弥生感覚だけでなく、自然に融合する縄文人の感性が残されているのかも。

話は変わって、ネアンデルタール人がホモサピエンスに入れ替わっていった原因にも出生率の差があるのではという説がありますね。いまの日本での人口減少と中国そして発展途上国の人口増を考えると怖い話です。
○余談の余談:ネアンデルタールとホモサピエンスの交代劇
ネアンデルタールとホモサピエンスの交代劇ですが、個人的には50年以上前から感覚的な幻想を持っています。
ホモサピエンスは言葉を発明した。実はそれがいまの文明が構築される事に繋がった。
そのトレードオフとして、自然そして他者との深い感情的な共感能力を失ってしまった。仏教、密教などが、悟りとして言葉ではなく感性による自然界の基本的な法則との融合を目指すというのは、言葉という魔物からの脱却なのかも。

一方、ネアンデルタールは言葉による交流ではなく、感性による限りなくテレパシーに近い感情の交流を選択したのではないか、そのトレードオフで文化・文明の世代間での伝達と進化を築けなかったのは。
出生率の差だけではなく、文明の世代間伝承の力に大きな差があったのかもわからない。

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