滋賀 安土城跡
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行程  2014年8月30日
  徳島市内=大津IC=大津市 松喜屋ランチ=竜王IC=安土駅=安土山(城跡)
    8:00            11:30-12:30                13:10-15:15
  =信長の館=徳島市内
   15:15-15:40 ~20:00

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します

カシミールとGPS
地元ツア「旅する教科書名城編」の第一回で安土城跡に行ってきました。
日本の歴史上の好きな人物のひとりである織田信長が作らせた「日本では初めての、そして世界でも類を見ない大規模な城と城下町」。
一度は行ってみたいと思っていて、たまたま見つけたバスツアに、飛びつきました。
大津で近江牛のランチの後、安土山へ。城跡を巡って最後に施設「信長の館」を見学。
昭和になって琵琶湖は大規模な埋め立てが行われ、城から見る風景は様変わり。

ツアで「日本百名城に行こう」という本をもらいました。
百名山のように名城巡りに嵌まっている方もおられるようです。今回のツアの参加者は、山ツアとはまた違ったキャラの方が多かったですね。城だけでなく五重塔などをまわっておられる方もおられました。
瀬田の唐橋の近く、近江牛専門店でランチして、安土山へ移動。
瀬田の唐橋は、壬申の乱で大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場。古来より京都に入るには瀬田川を渡る必要があり、唯一の橋だった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地で、「唐橋を制する者は天下を制す」と言われたそう。

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋

安土山

大手道 入り口

伝秀吉邸跡

秀吉邸説明
安土城跡 大手道入り口に説明図があります。大手道に入ってすぐ伝秀吉邸の跡。
文献が残っていないのか、すべて伝承という意味で「伝」がつけられています。
初めて天守を持つ城もそうだが、なにもなかった場所に、様々な斬新な工夫を組み入れて当時のパリをも凌いだ規模だったといわれる城下町。 いまは田畑に囲まれた田舎町の小高い山に礎石などが拡がるのみで、当時の面影はありません。

安土城跡

急な大手道

石仏の利用

高い一段です

暑い日でした
入り口から早速に復元された大手道を登ります。この石段、半端じゃなくきつい。一段一段が高、かつ急勾配。この石段の石は当時のものを発掘して使っているらしい。いかにも宗教条の制約に縛られなかっ信長らしく、どこかから持ってきた石仏も石段に活用しています。
ここも伝がつく邸宅跡。武井夕庵という信長の右筆だった人の邸跡らしい。
その隣には伝森蘭丸邸。現地ガイドさんも、これには???のよう。

伝武井夕庵邸

武井夕庵の石標

伝森蘭丸邸

黒金門跡

黒金門説明

織田信雄 四代の供養塔

仏足石
安土城中枢部への門が黒金門だったが、天主と一緒に焼失。織田信雄4代の墓は江戸時代。仏足は崩れた石垣から発見。石垣素材に使用は、流石、信長です
信長廟は、天正10年に大徳寺で信長の葬儀をとり行った羽柴秀吉が建立したものらしいが、なんだか新しいな。
そして本丸跡。これは内裏清涼殿と同じ造り。おそらく信長が天皇を呼ぶために造った?

信長廟

本丸跡の説明

本丸跡

天守の説明

礎石

琵琶湖方面

埋め立てで変貌
天主跡。安土だけが天主、その後は天守になった。いかにも信長らしい。真ん中に礎石がないことから中空の天守閣が再現されている。
下っていくと、捴見寺跡。
信長が城郭内に建立。臨済宗。近隣の社寺から多くの建物を移築したらしい。焼けずに残った三重の塔。室町時代のもので、信長が甲賀のの長寿寺より移設。
焼けずに残った二王門。これも甲賀から移設。
ぐるとまわって、殿秀吉邸跡に戻る。入り口のゲートと売店。天下布武の札を売ってました。
そして、天主閣などを復元した近くの信長の館へと移動。

殿秀吉邸跡

天下布武

信長の館

館に展示されていた

宣教師ジョバンニ・ニコラオ 作

狩野宗秀 作
信長の館に展示されていた肖像画(左の二つ)と、一般によく見る信長像です。少しずつ違うが、宣教師の描いた像が印象深い(^_^)。
狩野作は、信長の一周忌に長興寺に寄進されたものだそう。
安土城の天主が再現され、他にも色々展示されています。

蛇石 所在不明

天主 最上階の下

復元された天主

天主の模型
歩きながら、色んな疑問が湧いてきました。
    何故、信長は安土を選んだのか、
    完成後、本能寺の変までの3年と短い間に城下町が大発展できたのはなぜか、
    本能寺の変の後も織田一族も秀吉もここの城に居住もし、城下町もあったのに
        何故に近江八幡に移してしまったのか、
    そして、その後は日本の政治の中心部とならなかったのは何故なのか、
    天主はなぜ燃えてしまったのか、
    最近の発掘まで、情報も残されず放置に近い状態だったのはなぜなのか
よほど、当時は信長が嫌われたのか、あまりにも縁起が悪い場とされたのか。  
ジョバンニ・ニコラオ
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